人生の文字起こし

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最終回「さわやか」

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先日、ついにさわやかデビューを果たした。

 

今回さわやかをキメた3人のうち1人はさわやか経験者で、その方に全てを導いてもらったのだが、まず開店の一時間前に駅に集合するところから話が始まる。整理券の受付が開店一時間前から始まるからだ。私たちは見事整理番号2番を獲得した。シンプルなガチ勢である。

 

 

 

2番という数字

 

さわやかが中心地となっているこの地御殿場において、「私たちが2番である」という事実は何よりも強いことのように感じた。

絶対的な安心感に身を包まれたままブックオフで一時間暇を潰し、いよいよ店内へ。

 

 

 

開店したさわやかはすでに人で溢れかえっていた。平日の11時にみんなして何をやっているのか。みんなさわやかのために御殿場に来ている。そういった顔をしている。長く待つことを受け入れ、悟ったような顔で座る人々。

なんだかこれ、ディズニーランドみたいだ。

 

そう。さわやかを取り囲む状況はどう見てもファミリーレストランのそれではない。

既にさわやかに行くという行為自体が、さわやかを食べることを内包しつつ別の大きい意味を持っているのだ。

実質的には「さわやか」はテーマパークとして機能している。

 

 

 

「整理番号2番でお待ちのお客様~」

 

 

 

 

 

 

いやファストパスじゃん

 

待つことを当たり前だと思っている大衆を尻目に「2番」という数字を享受し颯爽と席へ向かうのは、完全にファストパスの快感と一致していた。この時点で気分は完全にテーマパークだった。

 

 

 

 

席に着き、経験者の導きのもと「げんこつハンバーグステーキ(250g)」を注文。

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眼前に突然「ネットでたくさん見たことあるそれ」の実物が現れ、私はそれを美しい、と思った。

店員さんが流れるような手つきでハンバーグをジュウ、と鉄板に押し付ける。げんこつハンバーグステーキが'完成'する瞬間を目にする。思わず「ずっと見ていたいな」などとこぼしてしまった。

 

 

 

ついに、さわやかを経験する時が来た。恐る恐る最初の一口を口に運ぶ。

 

 

 

 

 

うまい。

 

めちゃウマだ。

 

ハンバーグ状のものを食べていてここまで「私は肉を食べている」と感ぜられるものは他にないと断言してもいい。それほどまでに肉。

 

 

そう、言っておかなければならないことがある。

げんこつハンバーグステーキは、ハンバーグではない。

 

 

いきなりびっくりさせてしまったかもしれない。でもこれは真実なのだ。

信じるのは難しいかもしれない。しかし巷でさわやかがハンバーグと呼ばれているのはあくまで便宜上にすぎない。ハンバーグに似た別のもの。げんこつハンバーグステーキ。

これを文章で説明することは不可能に近く、食べた人にしか分からないニュアンスが確実にそこにはある。

 

げんこつハンバーグステーキは、ハンバーグと呼ぶにはあまりにも『肉』すぎる。かといってステーキでは絶対に無い。

げんこつハンバーグステーキは「げんこつハンバーグステーキ」というひとつの料理として個を確立しているのだ。

 

お分りいただけただろうか?これがさわやかを食べた者が見ている景色だ。

 

 

 

 

 

 

 

げんこつハンバーグステーキという名の幸福に浸っていると、次第にすこしの恐怖(それは確信とも呼べるものだ)が生まれる。

 

 

 

 

 

 

 

まさかこれ、食べたらなくなるんじゃないか。

 

 

 

てかなんかもう一口分削れてるんですけど。超減ってるんですけど!

 

私は「え?もうこんなになくなってるじゃん!」と本当に叫んだ。

ものごとの終わりを見据えすぎてしまう。私の悪い癖だ。

 

 

 

 

 

 

食べ進めていると先ほどの店員さん__いや、キャストさんと呼ばせていただこう。ここはテーマパークなので__がやってきて「焼き加減お味どうですか?」とにこやかに聞いてきた。

 

 

そうか、この人が。

 

今、私がさわやかという名の幸福を得ているのは、この人のおかげなのだ。この人が焼いてくれたからさわやかは「在る」。ありがとう。ありがとう。私は二回「最高です」と言った。更に顔を綻ばせ、キャストさんが去ってゆく。

このときたしかに、キャストさんの顔が光って見えた。

後光というのは神話や絵画のモチーフではなく本当に見えるものなんだなと思った。人へのありがたみとはこういうことなのか。キャストさん、ありがとうね。キャストさんへの感情が、高まる。

 

 

 

 

もうひとつ感慨を覚えたのが、

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鉄板の牛のやさしいまなざし。

 

それは、食べることを受け入れてくれている目。

食べているときなんども牛の顔が目に入る。そのたび牛はわたしを赦し、受け入れてくれる。

命を食べているという感触。都度噛みしめる。こんなによく噛んで食事をしたのはいつぶりだろう。食の実感がものすごい。牛、いつもありがとうね、本当、ありがとうね。

 

 

 

 

半分を食べ終わった頃、名残惜しさでスープや付け合わせしか食べられなくなる段階が来る。今度こそ終わりが見える。ものごとの終わりが。

 

最後はげんこつハンバーグステーキと私の二人きりになりたくて、付け合わせを全て食べた。肉と私の、二人だけの対話がしたかった。

 

 

食べるごとに幸福と同時に悲しさが込み上げてくる。嬉しいのに、嬉しいのに。複雑な感情の荒波に思わず手が止まることも少なくなかった。

しかしふいに。さわやかが、その躯体が、冷え始めていることに気づく。

 

 

私は思った。これは違うと。

いくら別れを惜しもうとも、さわやかの魅力を私が殺していいはずがない。美味しいまま、食べなくちゃ。それがリスペクトだ。

 

このとき私は「もう終わりにしよう、この物語をさ」と本当に口走ってしまった。

 

 

 

 

物語の最終回を受け入れることは悲しい。だけど、物語にとって、終わることは必ずしも悲しいことじゃない。さわやかにとってもまた、美味しい状態で食べきることが正しく幸せな終わり方なんだ。

 

一度覚悟が決まれば、私のナイフとフォークは流れるように終わりへと向かう。

最後の一口をたべるとき、私は清々しい気持ちになっていた。感動と、悲しさと、前を向く覚悟をありがとう。

 

 

食事にここまでのドラマを感じたことがあるだろうか?私はさわやかから本当に多くのことを受け取った。とても食事とは思えないくらいに。さわやかは、物語だ。

 

食べ終わった鉄板を見つめていると、私の頭の中にある曲が流れ出す。ピアノの透き通った旋律。ショパン「別れの曲」だった。ありがとう。そしてさようなら。

 

 

 

 

 

もはやさわやかを物語としてしか語れなくなっている。食事として捉えられないんだよ。さわやか、すごっ。

これらは決してさわやかのげんこつハンバーグがおいしいという、それだけの要素で生まれた感情では無い。

さわやかがクソクソ遠い御殿場にしか無いこと、異常なまでの人気と列、整理券制なことによるテーマパーク感、教育の行き渡ったキャストさんの神対応、さわやかに憧れた今までの日々、それらが具象としての"「げんこつハンバーグステーキ(250g)」を食べる行為"の前に立ち上がり、この感動を出力している。

さわやかを目の前にした時の感動は、これまでの人生の積み重ねだ。

 

 

 

だから大丈夫、これは終わりじゃない。

 

また人生を積み重ねて、きっと再びさわやかに訪れよう。

 

 

 

今回のさわやかは”第1期の”最終回だ。

 

 

 

絶対にさわやかの第2期をやろう。第2期制作決定。

 

 

 

さわやか。私にこんな彩り豊かな経験を与えてくれてありがとう。

牛、ありがとう。キャストさん、ありがとう。顔は見えないけど厨房の人も、ありがとう。ありがとうね。

 

 

 

そして今度会うとき、また笑顔で会えるように。

 

 

その時まで、さようなら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おわり